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ケニアでの生活6か月②

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ケニアでの生活6か月②

 

 これまでに12ページのケニア生活記録を書いてありました。121日、押し込み強盗に襲われパソコンやUSB等も盗まれた為私のドキュメントも全部消えてしまいました。思い出して書こうかとも思いましたが121日以降のケニアでの私の幸せ感がすっかり色あせてしまい以前の様な気持ちで書けなくなりました。  でもそれで止めてしまうのは悔しく、1ヶ月半過ぎた今、傷跡は残りアザは目の下のクマみたいに消えずにある現状ですが、盗まれなかった命の有難さを思うと落ち込んではいられません。書いていた一部を友人達に送ってあったので、その綴りを手元に転送してもらってので、その続きとして再び書き始めることにしました。

 

121日(月)、思い出したくない日

 

 朝3時頃だと思う。鉄のドアの二個のロックをカタ、カタと開ける音がし男たちの話し声がした こんな時間に誰だろう?我が家に入って来る?とぼんやり思った瞬間に男たちは私達の寝室に入って来た。ドアの近くのベッドに寝ていたニッセの手を縛り「抵抗したら殺すぞ」と言っている。一人の男が私の方に近づき私の顔を見てチャイニーズだと他の男達に話し掛け、私の枕の下を調べだした。自然に私の頭が持ち上げられたと同時に私の顔めがけてトンカチで思い切り打ってきた。目から火花が散った。痛いと手を目に当てたその手を強く紐で縛り付け私のネックレスをむしりとり指輪を外し出した。なかなか取れず私は指をもぎ取られる恐怖を感じた。彼たちが手に持っていたパンガ(大ナタのようなもの)が見えてから、その後の瞬間の記憶が無い。しかし2個の指輪は無事外れた様だ、私達は身動き出来ずジーとしていた。タンスや引き出しから全ての物を引っ張り出し金目の物をあさっている様子が感じられた。ガン(銃)は何処だと何度も聞いてくる。ニッセは「自分達は持っていない」と言う。「金はどこだ」、ニッセは在り場所を静かに落ち着いて教えていた。「私の携帯はどこだ」と聞く。多分私のリュックサックだと思うと答えた。寝室の電気は点いており、仮面などはつけていない。寝室にはもう盗る物が無いと見たのか居間に移動して行く。スワヒリ語(?)の話し声が聞こえてきた。随分長い時が過ぎた様に感じる、話し声が少しづつ遠くに聞こえる様になってからも私達は20分位縛られたまま静かにしていた。私は縛られた手を解き、静かに起き上がり痛い目を押さえながら、居間に置いてあった盗り忘れられた目覚まし時計を見た。45分前だった。ニッセも静かに起き上がると同時に寝室の床に沢山の胃液を吐いた。

  私は足の踏み場も無く荒らされた部屋を見渡し何が我が家から消えてしまったのかを見渡した。そしてずーと手で押さえていた左目を鏡で恐る恐る見てみました。目が見える事が嬉しく思われました。鼻よりで左繭の少し上に3cmほどの傷が出来ており、特に左目と鼻のまわりが紫色に腫れていました。私達は5時になるまでジーと待って寝室の近くに位置するボーンの寝ている小屋に声を掛け起こしました。彼には何ごともなく深く眠っていたと言う、後で聞いた話であるが私達に睡眠薬を含んだスプレーを掛けたのではと思われる。ボーンは直ぐ私たちの雇っているケアテイク、スレへ携帯で連絡をしてくれた。家族のあるスレは近くに住んでいる 私たちは全ての連絡網を閉ざされているのです。(ボーンはスレの友人で、うちの敷地内のケアテイクの住む小さな家に寝泊りしています)スレは直ぐ駆けつけてくれた。同じ通りの隣人たちも(マンデラ, キトゥンガ夫妻、スレのマリアム)駆けつけてきて慰めてくれました。残念だったのはDamasucosダマスカスクローズで共同で雇っている夜警たちは(Ideal社)何の役にも立ちませんでした。強盗は庭の垣根を壊して進入して来ましたし、庭の向こう側は空き地で誰でも進入出来る立地条件なのです。私達は少し気が静まってからンゴングの警察へ行き事情を話し、警官2名が私達の車に便乗して踏み荒らされた我が家を見に来ました。指紋や写真を撮るわけでもなく、ただ見ただけで帰っていきました。カメラも携帯も盗られていますので証拠になる撮影が出来ないのは本当に残念に思いました。

 スレの帰りを待つ間私達は少し身体を休めました。そしてスレと一緒に再び警察へ行きました。私の傷は医者に見せなければいけないと言われ、一番近い小さな医院を選び車を走らせました。カレンの中にあるセント・オデリアス・ディスペンサリーという所で、1時間ほど待ったのち、男性の看護師さん事情を話しました。先ず血圧を測り、「高い」と言われました。こんな時、正常な血圧の老人(私)なんていないと思い気にしないでいました。彼はカレン病院へ紹介状を書くので病院でレントゲンを撮ってくるように言いました。そして私が手を縛られた時に血が回らず左の手が紫色に変色しており指輪を抜くときにも薬指が傷ついていましたのでクリームと頭痛薬を出しますと言いました。私は頭痛薬は断りました。

 

カレン病院のレントゲン室での不思議な体験

 

 レントゲンを撮るために待合室で30分ほど待ちました。呼び出しが有りレントゲン技師が私を案内して撮影の体勢をとりました。頭の正面と左側面の2枚を撮影すると言い、先ずは正面撮影です。壁側を向かされました。次は左側面をと、私の身体の位置を半回転して先生は撮影のため部屋を出て行きました。私が向いた方の小さな部屋の空間に不思議な動きをする透明の婦人(白人の顔)の姿が私の目に映りました。彼女は穏やかな姿で「大丈夫、大丈夫」と私に伝えようとしている感じを私の心に響きました。私は頭を強く打たれたので待合室で会った人がダブって目に焼きついたのではと思いましたが、待っていた人はニッセを除いて皆ケニア人でした。レントゲンの結果の手紙をもらったりして私はすっかりその事は頭から消えておりました。数日たってスーとその時の情景が目に浮かびニッセに話しました。彼は自分の母ではなかったか?と聞きましたが私の知っている誰でもありませんでした。そのような事をあまり信じないニッセですが「エンジェルが私を守ってくれた!」と確信ありげに言いました。

 レントゲンの結果を書いた手紙をニッセは開けて骨は折れていない事を確認しました。セント・オデリアス・ディスペンサリーの受付に渡し、その足で警察へ再び寄り事件の詳細を調書に書いたり、盗られた覚えている物のリスト等も書きました。長い時間が掛かり、全ては手書でした。私の気力は限界で疲れはピークに達していました。早朝より緊張の連続です。早く横になり休みたく思いました。長い長い想い出したくない一日でした。                                       

 私がなぜトンカチで顔を打たれたのか?ケニア人に聞いたところ10人中10人が疑いもせず答えました。チャイニーズは空手とか護身術を身に着けているので私を怖がったのだと、テレビの影響で私はとんだとばっちりを受けました。中国人は自分たちのチャンネルを持っております。

 

盗られた物のリスト

 

 これらは一度に書けたのでは無く、例えば停電の時懐中電灯を探し見つからずあーそうかと言う具合にです。まだ発見しないでいる物も有るかも知れません。

 

1.テレビ Sony Bravia

 2.PC, Laptop 2台(Sony,Emachines

3.カメラ(Canon Digtal) 

4.ポータブルDVDプレーヤー(Bluedot) 

5.トランジスターラジオ(Sony)2台 

6.ラジオ(Sony) 

7.指輪 3個 

8.携帯電話 2台  

9.うで時計2個  

10.望遠鏡  

11.お金 2500SKR 10000KSH 100USD   

12.サングラス  

13.虫眼鏡  

14USB16mb)  

15.キャプ  

16.リックサック 2個  

17.体重計  

18.懐中電灯 3個  

19PC.用バック  

20.マサイ毛布 2枚  

21.ニッセのケニア製サファリージャケット  

22.サファリーハット  

23.ニッセのサンダル  

24.マサイの杖  

25.ウオークマン  

26.洗濯粉石けん  

27.カメラの三脚 

 

 私のネックレスは鎖は切れていましたが、土足で踏まれた洋服の下に落ちていました、ラッキー!

 

事件の次の日


 特に朝の1から4時の間は寝れませんでした。4時過ぎてからはドロボーは来ないと思い、ウトウトとする。中から二重の鍵を閉めているので安全とは思いつつもです。ニッセは予定通り赤十字のボランテアの仕事で出かけて行きました。私は足の踏み場もなく床いっぱいに散らかっているものを先ずは元の場所に入れて土足で入って汚された床を何度も拭きました。引っ張りちぎられた蚊帳はスレが直してくれ再び付けてくれました。シーツや布団も汚されましたがそれを取り替える元気は残っていません。横になり休みました、この日も寝むれませんでした。

 

事件の起きた日の2日後

 

 余分に持ってきたサイクリング用サングラスが盗られず残っていました。これを掛けなかったら私の顔半分は見られたものではありません。決して外には出なかったでしょう。いつもの通りKCBへ行き、軽く走り身体を動かすことにしました。その後ギャラリアのショッピングセンターへ行きラップトップコンピューターとカメラを買いました。メールをやり取り出来なくなる事は私達にとって致命的な事です。カメラも同じです。

 事件から数日過ぎていましたが、私の顔の傷跡を証拠に撮りたかったのです。消えた物を惜しんでばかりはおれません。私の目の紫色に腫れた顔を見てお店の人達は気の毒に思ったのでしょうか、とても親切に助けてくれました。しかし新しいパソコンを使いこなすには私にとってはいろいろな挑戦をしなければいけません。メールを打てる様になるまで数日が掛かりました。そして携帯電話とテレビやラジオもすぐ買い揃えました。

 マンデラ夫妻とスレのマリアムが再びフルーツや野菜を持って、お見舞いに来てくれました。 

  24日はナンシーが、そして再びマリアムは私たちの好きなサツマイモを持ち見舞ってくれました。何と嬉しい事でしょう。多くのケニア人は親切なのです。

 

続、移民局 

 

 昨年の127日に行き、移民局の副事務局長は「調べて分かり次第連絡します」と言ったのにその後何の連絡もありません。私たちはすでに21日以降、ケニアのResidence(居住権)を取得する気は無くなりましたが、私達の書類は何処に隠れているのか?これからどうしたら良いのか?の返答をしてもらえずそのままに放り投げるのもしゃくです。それでスレーマンとニッセは再び24日に移民局に行く事にしました。私はお岩さんの様な顔でしたので欠席です。ダン・オポン氏(事務局長)に会えましたが、「調べるのをすっかり忘れていました」との返事でした。即調べてもらうということでニッセ達は帰ってきました。そして次の週、オポン氏より手紙で返事がありました。結局、私達が提出した書類は見つからない事、もしResidenceを取得したければ再び書類を作成し提出して下さいとの事でした。賄賂を欲しくて書類を隠した人が、証拠隠滅のために焼き捨てたものと思われます。発覚してしまうと首が飛ぶからです。お粗末な話です。居住権は1年が期限です。申請が受理されると、60000KSHを毎年支払わなければいけません。観光ビザで入国するとナショナルパーク等の入園料やホテル料が高くなりますがさてどちらが得になるのかが問題です。

 

2月よりマサイ人の夜警を付けました。


 彼の名前はオレ・モサナ(モーゼの息子の意)午後7時から朝6時までの夜警です。耳に大きな穴が開いていて贅肉など何処にも付いていない長身の人です。ベルトにはサックに入った長いナイフをぶら下げています。とても切れそうです。まずは太い枝を見つけてきて、つかみ手を上手に削りました。そして手ごろな石を5個見つけて外の暖炉の上に置きました。来るときに持ってきた物の中に丸い木のこぶが先に付いた棒があり、それは何時も持ち歩いています。それで強く打たれたら私がトンカチで顔を打たれたよりもっと酷い穴が開きそうな感じがしました。彼は英語は話しません。ニッセの少しばかりのスワヒリ語で挨拶は交わします。スレがマサイ語で通訳してくれます。読み書きの出来ないマサイ族の戦士です。庭の垣根を壊して入って来た賊を直ぐに退治してくれそうな頼もしいオレ・モサナです。中から鉄のドアに二重の鍵を掛けて寝ますし警報器も付けました。これでもう大丈夫!

 

ケニア青少年赤十字、Olooluaグループのオープニング


 23日、この日の為にニッセは2年以上も力を入れてきました。私達がこの家に住むようになった初めの年にDamascos Closeの人達を含めケニアの知人達を招待してハウスウオーミングをしました。その時ケニア赤十字よりPamela Indiakaが来てくれて、その時の挨拶にニッセが関わった赤十字の人生、ケニア赤十字の事などを話しました。その数日後、3人の若者が我が家を訪ね赤十字の会員になりたいと言ってきました。ニッセの情熱と赤十字精神が燃え上がり3人を含めたこの地域の青少年グループを立ち上げ、10人以上の若者が集まりました。我が家を提供してニッセが応急処置の講義をして、赤十字活動を知るための学習会等も行いました。勿論ケニア赤十字Karen-Langata 支部の一部としてOlooluaグループがスタートしたわけです。私達がスウェーデンへ帰って留守をしている半年間はKaren-Langata支部が助けると言う訳です。昨年の4月、ニッセの弟が亡くなりお葬式に出られない私達は供養としてグループの活動できる場所を建てられる資金を寄付しました。その話を聞いた私の元職場の友、Birgittaがトイレを建てるお金を寄付してくれました。彼達はトイレに行く時「Birgittaへ行く」が合言葉になりました。随分時間が経ちましたが本日やっとオープニングを迎えることができました。ニッセにとって思い出深く心豊かになる日と察します。私はカメラを持ち事故の傷は生々しく残っておりましたが、サングラスをかけ参加しました。Karen-Langata赤十字支部からもお祝いに来てくれました。近所の人達やグループの若者を含めて70名ほど集まり、満足なオープニングになりました。人々の間にヒューマニティーの輪が広がることを祈ります。ニッセ良かったね!!!

 

キリマンジャロや象達との出会い

 

14-16日に掛けて、私達は気分一新する為、Amboseli National Park(アンボセリ国立公園)へ出かける事にしました。Ngongの我が家を離れる事は私たちにとって良いてセラピィーに成るからです。AmboseliMt.キリマンジャロが一番美しく見える場所と言われています。勿論タンザニアに位置しケニアの国境沿いにそびえています。標高5895mと古い地図にのっていますが現在は雪や氷河も溶け始めてきていますので数値が変わっていると思います。ケニアの友人Suleiman夫婦を招待しました。現地の人が一緒だと心強い限りです。Garelliaのパーキング場で落ち合いSuleiman が運転して出発です。ナイロビを抜けるのに渋滞続きでずいぶんと時間が掛かった様ですが私は連日の寝不足でウトウト、あっと言う間に田舎の砂利道になりました。運転はニッセにチェンジ、ガタゴト揺られナショナルパークのNamanga Gateまで一時間半かかり、入園料(私達80USAドル×2Suleiman 達、約15USAドル×2)を払いました。観光ビザの私達は随分高いです。ゲートに来るとマサイ族の女たちがビーズの手作り飾り物を売りつける為にワーと寄ってきました。何十匹ものハエと共にでしたので私とFelishinaは一個ずつ買い思わず窓を閉めました。それから一時間走りゲートの中にあるセレナロッジに到着しました。キリマンジャロは何処?きっと今は雲に隠れているのでしょう。ロッジは素敵な所でした。午後早速、サファリに出ました。草原の広がる国立公園は直ぐに象の群れを発見、家族連れの象達の(子象連れの3家族)移動していく姿を20分もじっくり、目の当たりに見て感動しました。Amboseliには60の象の大家族が生息しています。1家族が2025頭もの集団です。子供象、十代象、両親象、そして祖父母象が皆かばい合い生きています。Amboseliはキリマンジャロの北側に面している為、雨はほとんど降らず、本来は小さな砂漠地帯ですがキリマンジャロの雪や氷河等が溶け柔らかい岩盤を通して流れ着く為、湿地や小さな湖となり、オアシスを作っています。セレナロッジは1973年ニッセと私が始めてケニアで遇った年にオープンされたそうです。そこは3食付の予約でしたので毎日(2泊)バイキング式の食事を目いっぱい食べました。ロッジの入り口にはホテルの名前入りの10本ほどの大きな綺麗な傘が置いてあり「雨が降りました時はお持ち帰り下さい」と書いてありました。私は朝食前ロッジのゲートの傍のキリマンジャロの一番近く、美しく見える場所へ行き何度も手を合わせました。3日間、ゾウ、カバ、キリン、鹿、ダチョウ、ギニ鳥やシマウマ等、たくさんの動物をこの目で見られ最高でした。再び来てみたい場所になりました。帰りはKajiadoよりKiserianへ抜ける近道を通りました。道に穴ぼこがあったのでガタガタ揺れて快適とは言えませんでしたがナイロビを避けて我が家に着けたのは楽でした。この車の長旅はトイレ休憩を取らない覚悟で出発前の飲み食いはなるべく避けると良いと言うのが私の経験でした。

 

ケニアの選挙について

 

34日(月)が投票日です(6-17時)ケアテイクのSulle515分から列に並び帰ってきたのは12時過ぎでした。炎天下で12時間以上待つのが普通で投票する事への情熱と我慢強さはすごいものと感心しました。選挙権を登録していた者の投票率が86%と言いますからスウェーデンだって顔負けです。そして問題無き平和な選挙であります事を国民や各団体が大いに願いそれに向けて全力を尽くしている事がメディアを通じて感じられます。しかし平和を願う影で何が起きるか分からない緊張の響きが、Ngongの我が家でテレビや新聞の報道を見ている私達にも伝わります。大統領候補8名中一人が50%以上の投票率に達せれば当選、50%未満だと上位の2名で再び選挙を行います。投票日から5日目の9日(土)に選挙管理委員会はウルフ・ケニアッタ氏(51)が50.07%で当選だと発表しました。しかし対立候補のライラ・オディンガ氏(68)の陣営は結果発表に違反ありとケニアッタ氏の当選を認めず最高裁判所へ異議を申し立てる事を発表しました。今後、混乱が広がる恐れもありますが今のところ大きな事件は起きていません、平和を求める多くの人々は安堵している事でしょう。最高裁判所からの返答はイースターの前後になると思われます。(30日と発表)

2007/8年の選挙の時は各地で暴動が起き1300人の殺人、633000人以上の人々が住み慣れた土地を離れ一部の人達はウガンダへ逃げ難民者となり、多くの人々はケニアの非難キャンプ地に身を寄せました。5年後の今もナクール地域の外れにキャンプ生活者が残存しています。この様な事件は二度と起こしたくないと平和を祈る団体等がキャンペーンを起こしています。ニッセが力を貸して立ち上げたOloolua赤十字青年グループもNgong地域を選挙当選発表後、パトロールを続けました。小さなデモや小競り合いはいろいろ起きていますが、我が家周辺は静かです。赤十字Karen-Langata支部はナイロビ内の大きなスラム街Kibera5年前の選挙の時ここでもっとも大きな暴動が起きました)も管轄していますので、彼たちの活躍は目覚しくボランテアの人達は大きな事件にならない為のパトロールを続けている事と思います。ケニア人が緊張している選挙日の前日の出来事です。モンバサの北部に位置するKilifiと言う投票地に強盗/テログループ(MRC.)が選挙を妨害する為にそこを襲いました。17人の死者、内10名が警官でした。しかし投票場を(安全を十分にした上)移動し翌日は無事に投票を行いました。この時のモンバサ赤十字の活躍も目覚しいものでした。他にもKakamega,Garissaと言う地域で小さな事件がありました。

ひとつケニアの選挙に大きな変化が見られました。選挙権獲得の為には選挙管理委員会(IEBC)のコンピュータに写真や指紋を登録しなければいけません。登録しなければ選挙の資格を持っている人でも投票はできません。また、2010年に憲法が改正され地方分権化のプロセスを強化しました。(47の県に分けました)

1.市町村議長

2.議会へは47名の女性代表  

3.国会議員 290  

4.上院議員 47  

5.県政府47の知事  

6.大統領

この6人を各々選んで投票しなければいけません。6種類に色分けした投票用紙を同じ色の投票箱に投入します。これは大変な事、間違い、無効投票が1%ありました。無理もない事です。

前後しますが218日(月)スウェーデン大使館主催で選挙前の「危機に対する安全対策」のタイトルで説明会がスウェーデン学校で行いました。私達も参加し、コーヒーと菓子パンをご馳走になりました。大使や職員が、事件が起きる可能性を含めて事前に準備する事などの注意点を話してくれました。暴動が起きた場合は家で待機して正しい情報を受ける事、そして銀行が通常に働かなくなった場合を考えて現金は手元に保持する事、停電になった場合の事を考えてガスボンベは必ず買っておくことパソコンや携帯電話が使える様エアタイムは余分に買っておく事、水や食料も同じ、ガソリンも満タンにしておく等々、それらは私達も当然考えて用意する準備をしていました。いろいろ参考になり楽しい集まりでした。ニッセは新しい携帯番号を登録しました。SMSで緊急事態が起きた場合、旅行情報などを含めて、全員に連絡するそうです。大使館主催の集いからの帰りの車中で私はとても不安になりました。「スウェーデン国民が、を、は、」その言葉が耳から離れなかったからです。私は「日本国籍保持者、ニホンジンダー」非難時の際ニッセと一緒にスウェーデンへ帰れないかも?と彼に私の不安を話しました。ニッセは「大丈夫、スウェーデンへは自分と一緒、信じて疑いなし」と言いつつも帰宅後直ぐ大使館へメールを入れて確認してくれました。セキュリティ責任者Ann Rocheが即、返事をくれました。「勿論、ニッセと共に家族としてスウェーデン国が保護しますなど‥」短く温かい返信でした。私は心が震え涙を流しました。日本大使館へは在留届けを提出してありますが何の連絡もありません。

 

KCBKenya Commercial Bank LTD.

 

KCBは銀行の経営する所有地で広い敷地の中に建物が沢山あり、庭も広く安全も確保されております。リーダシップを養成するコースやコンファレンス等が行われており時には結婚式の後の祝賀パーティ等にも利用されているみたいです。大きな敷地の中にはスポーツセンターもあり、水泳プール、ジム、室内運動場、屋外陸上トラック、テニスコート等が用意されております。私達はそこの会員でジムは200シリングを別払いですが後は自由に利用できます。私達が買い物に利用するKarenセンターの2キロほど手前に位置しています(我が家からは13キロほど)。ニッセはジムを利用し、その後プールで泳ぎます。私は陸上トラックを約7周して汗を流しシャワーを浴びます。陸上トラックは日向を走りますので強い日差しを避ける為、私は帽子とサングラスは離せません。しかしNgonghillsからの風の通り路なのか涼しい快い風が吹き抜けます。200mほど風に揺られているとそこはもうNgongの七つの丘がすっきり美しく見える場所に来ます。毎回景色(雲)が変わりますので楽しみながら一気に一周します。快い氣(喜)が宇宙から伝わってきます。芝生の所は、マラボーストックやイーリス鳥達の憩いの場所ともなっています。ある時は57羽もいて数えるのに大変でした。私がゆっくり走って行きますと鳥様も静かに移動してくれるのです。足の長い決して美しいとは言えない鳥達ですが、おっとりして優しそうに見えます。羽ばたく時の音は風を呼んで豪快です。私は時には話し掛けたりしますがおっとりと聞いてくれているのだと思っています。1週間に3回は利用しますのでファミリィー年会費2kshを払いまが、安心して運動できる場を与えられた幸運を感謝します。

 

プラスチックのごみの山, どうするつもり?

 

我が家の庭も然り、いつの間にかプラスチックの袋が散らばっています。私がそれを一箇所に集めても夜警番やSulle達も無関心に捨てるのでいつの間にか散乱しています。庭で燃やすべきかそれともゴミ処理場へ持って行くべきか迷います。どこの道端もプラスチックのゴミで溢れています。私達がKarenセンターへ行く途中で3つのビジネスセンターを車で通過します。Ngong 市場周辺は人も多くごちゃごちゃしていますが目立つのはやはりゴミの山です。3つ目のブルブル(Bulbul)を通る時も、道端や到る所にプラスチックのゴミが散らばっていて、しかも鼻を摘みたくなるほどの悪臭です。その上をヤギ共がたむろして餌をあさっています。「ヤギはプラスチックも食べるのか?」、「彼たちは特別の消化液を持っているんだよ」とニッセは言います。本当かな?それに反して、道々で目にするのは立派な教会の建物です。日曜日は多くの人々が素敵に着飾って礼拝に出掛けます。散らかったゴミには目もくれず路行く人々の群れ。どうも不釣合いに感じるのは私だけなのか?ケニアの人達は何でもどこでもポイ捨てをします。大地は大きなゴミ箱と思っているようです。昔からの習慣らしいです。昔とはプラスチックも地球を汚染する重金属もあまり使われていなかった時代の事だと思います。ほとんどの人がモバイルを持ち歩いてるケニアの人々よ、地球を大切にしようではありませんか、とは私達にも言える事でした。

ケニアにもいました、プラスチック袋のリサイクルに取り組んでいるエネルギッシュな28歳の女性(ある新聞の記事より)です。彼女はEKOPOST(エコー柱)会社を創立しました。プラスチック袋を集め種別洗浄し、それを建築用製材に作り垣根の支柱等にしたりして、利用価値が評価されているようです。直接100人の若者や女性達が従業員で500人余りの人々が間接的にこの仕事に関わっていると書かれてありました。リサイクルシステムが確立して長続きする事を祈ります。

 

ケニア大統領選で最高裁発表

 

39日に選挙管理委員会はケニヤッタ氏(51)が50.07%の得票率で当選と発表しましたが、対立候補のオデンガ氏(68)らが選挙に不正があったと主張して最高裁に異議を申し立てていました。オデンガ氏の得票率は約43%でした。

ケニア最高裁判所は30日、ケニヤッタ氏当選の選挙結果を正当と認める決定を発表しました。ケニヤッタ氏の大統領就任式は49日の予定です。ケニヤッタ氏は故初代大統領の息子で、2007年末に行われた前回の大統領選挙後に1300人の死者を出した暴動を首謀したとして国際刑事裁判所(ICC)に訴追されていますが関与を否定しています。ICCの裁判はこれからも続きます。今後もそれらの成り行きは大いに注目したく思います。今のところ2007年の時の様な大きな事件は起きていません。嬉しい事です。

 

続、ケニアの鶏小屋の出来事

Adaのひよこ達4羽は無事成長しましたので名前を付けました。雌鳥のAshaParis、雄鶏はPelleKalle。ある日Parisが病気になりました。ウイルスに感染してしまい、薬を与えました。結局彼女は目が見えなくなりましたが生き延びました。病気になったParisの名前を、アイ(Eye=目の意、愛)ちゃんと変えました。盲目の愛ちゃんも大きくなり、良く頑張って生きています。あれからAda2度、Natashaは初めて卵を抱きました。3週間も卵を温めています。Adaからは7個の卵が孵化しましたがNatashaの卵は、いくら待ってもひよこに孵りませんでした。Adaの黒色のひよこは死に、もう1羽は猫に襲われて食べられてしまいましたが、5羽が残り沢山餌を食べ成長しピヨピヨと鳴いています。Adaはお母さん業を止めて、また卵を産み始めました。

さて雄鶏の話です。Patrickは足を怪我して一時元気を無くしていましたのでSulleは自分の小屋から雌と雄を我が家の鶏小屋へ放しました。私達に沢山卵を食べてもらいたいとの優しい心遣いです。鶏小屋には雄鶏が4羽になりましたが、(Sulleの雄鶏にGeorge雌鳥にBrownyと名を付けました)Georgeがボス、彼だけがコケコッコーと鳴けるのだそうです。まもなく隣の雄鶏が訪問する様になりこれまた甲高い声でコケコッコーと鳴き小屋をぐるぐる廻るのです。どうもBrownyがお目当てのようです。鶏達を外へ放すと2羽だけが一緒になり何処かに消えてしまいました。Brownyは我が鶏小屋には戻らなくなり隣に引っ越してバナナの木下に卵を産み温め始めたのです。しかし一晩中雨の降った次の朝、震えながら我が家へ戻りました。この恋の結末ですが、BrownySulleの鶏小屋へ戻され、数日温めた卵は野良猫の餌になってしまったのでした。隣の雄鶏は毎日我が家の庭に来て甲高く泣叫んでいます。雄鶏のGeorgePatrickKallePelle達は毎日「俺がボスだ」と大喧嘩をします。私達の大事な卵を潰すほどです。Georgeが小屋に残り後は違う所に移されました。

 

これからも鶏物語は続くのでしょうが、私とニッセのケニア滞在は残すところ1ヶ月になります。

 

 


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